前回「聞く技術 聞いてもらう技術」の本についての感想を書きました。
まず「ちょっと聞いて」と言ってみる!「聞く技術 聞いてもらう技術」 - リウのくらしの絵日記
その本の中で出てきたのですが、ある小児科医の言葉で「ほどよい母親 good enough mother」というのがありました。
その小児科医によると、母親には「対象としての母親」と「環境としての母親」があると言っています。
(母親=ケアギバー、お世話をしてくれる人ということです)
「対象としての母親」は、母親はこういう人だった、こんな思い出がある、と一人の人として思い出されます。
一方「環境としての母親」は、存在を気づかれず、意識されません。
つまり、子どもがタンスを開けると洗濯されて、きれいに畳まれたシャツを着るけど、その時に「これはお母さんがきれいにしてくれたんだ」と存在を思い出されることはない母親なのです。
なんかこう書くと母親って寂しいなあって思いますよね。
もちろん子育て(ケア)に見返りを求めているわけではないけど、存在を気にされていないというのはほんと寂しいです。
赤ちゃんのお世話をするときは、母親は赤ちゃんを不快にさせないよう、すくすく育つよう「パーフェクトな母親」として一生懸命です。
しかし、この何もしなくてもずっと気持ちいい時間が続く万能感に浸っていると、子どもは母親がお世話をしてくれていることに気づきません。
子供は、ずっと成長せずに赤ちゃんのまま。
著者は「千と千尋の神隠し」に出てくる湯婆婆の息子「坊」を喩えに出していますが、わかりやすいですね。
わたくしも以前は「完璧な母親」になろうと頑張ってきました。
でもそれって子どものためにはならないし、自分自身も疲弊してしまいます。
いつも安心感を感じられる「環境としての母親」の存在は大切ですが、ケアされる側は「対象としての母親」として思うことが大事だって学ばなければいけないですね。
母親は「完璧な母親」ではなく「 ほどよい母親」がいいのだと。
母親も失敗はしますが、またやり直します。その繰り返し。
「環境としての母親」と「対象としての母親」を行ったりきたりするのが大事です。その過程で、子どもはだんだんと「ああ、お母さんにも限界がるんだ」と気づき、母親へに感謝が生まれて、大人になっていきます。
(本では「母親」がメインで出てくるので、あまりにも母親に感謝!が強く感じてしまわれるかもしれませんが、「環境としての」人や何かに対して、そう思うといいのではないかな)
「完璧」ではなく「ほどよい」。
生き方も考え方も「ほどよい」感じにしたいなあって思いました。
では!