高齢の母もいますし、わたくしだって気持ちはヤング(←死語)だけど立派な中高年。
葬儀やお墓のことがいろいろ気になりますので、読んでみましたよ。
葬儀の40年の変遷
著者は奈良大学の教授をなさっている1960年生まれの万葉学者の上野誠氏。
ご自身が体験された、おじいさまからお母さまの葬儀に至る40年の変遷を、古事記や民俗学、仏教やキリスト教などからの考察を交えて書かれたエッセイです。
上野先生の子供の頃の葬儀のお話は生まれ故郷の福岡県甘木市が舞台ですので、福岡に住むわたくしは言葉とか習慣がとても身近に感じられて面白く読めました。
70年代の葬儀
1973年のおじいさまの葬儀から上野先生の葬儀体験(葬儀に深く関わったということ)は始まっているのですが、あの頃は、特に田舎は昔ながらの葬儀が執り行われていたものです。
葬儀は自宅で、親戚縁者だけでなく、近所に住む人たちの力を借りて行うことが一般的でした。
近所の兼ね合いを考えた葬儀の規模や、焼香の順番などを男衆がぐだぐだ話し合いを行い、女衆は仮通夜、本通夜、葬儀の後などの食事を作るために奮闘する。
わたくしはここまでの昔ながらの葬儀は体験したことはありませんが、近いものは何度かありますので、葬儀時の女性の苦労は本当にわかります。
男衆の話し合い
で、男衆のぐだぐだ話し合いについての記述です。
結論など、はじめから決まっているのだ。結論は、まぁいろいろな意見はあるけれども、ここはやはり喪主の気持ちを尊重して決めるのが筋だろう、というところに落としどころがはじめから決まっているのだ。
それでも、ぐだぐだ、長々とやらなくてはならないのである。つまり、勝者も敗者も作らず、みながしぶしぶ同意したというかたちを、必ず取るものなのだ。そうすれば、失敗しても誰も貴任を負わなくてすむ。これが、寄り合いの民主主義というものだ。
この部分を読んで、わたくしは、はっ!としました。
例の森会長の発言
この間の「会議が長くなるのは云々」の森会長の思考ってまさにコレじゃないかと。
本当に話し合うことがあるならば、発言したい人が発言して、その問題が解決するように時間をかけないといけないはずなのに、会議の時間がかからないようにお膳立てしたスケジュールで進められる。
結論ありきの会議ってことですものね。
森会長の思考って、この昔ながらの村の寄り合いの考えなんですね。
最後に
今はこういう自宅でご近所の力を借りて葬儀を行うところもごくわずかでしょう。
今は家族だけで見送るという形が、ずいぶん増えてきました。
著者の上野先生はこう語っています。
死にゆく者を見送るのは、人の人たる義務だ。しかし、送る人の生活の質を低下させることがあってはならない、と思っている。
葬儀だけでなく、介護だってそうですが、生きている人、介護する人の幸せを考えることって大事ですよね。
これだけ、社会や家族の形が変わってるのですから、昔ながらの寄り合いのやり方、考え方はかなり無理があるということです。
葬儀や墓だけでなく、生きているわたくしたちの生き方も変化に対応しなくては、と考えさせられた一冊でした。
では!